奈良の老舗和菓子屋で8年間の修業
私は18歳の頃から8年間、奈良県の萬々堂という和菓子屋で修業を積みました。奈良市のもちいどのセンター街にお店があり、創業は江戸後期の老舗和菓子司です。米の粉を油で揚げて作る「ぶと饅頭」という唐菓子が有名で、春日大社の御鎮座当初から今日に至るまで御祭礼にお供えされています。
昭和32年の春。不慣れな地、奈良で私の修業時代が始まりました。当時、主に奈良県内から11人の先輩が住み込みで働いていました。鳥取のような遠方から来ているのは私くらいでしたね。上下関係の厳しい職人の世界、いきなり和菓子作りをできるわけではありません。最初の3年は店番と配達に明け暮れました。
私はそれまで奈良に行ったことがありませんでしたので、最初のうちは住所を覚えるのが大変でした。町名や目印の建物、上得意客のお宅…自転車で奈良市内をぐるぐる回って、頭に叩き込んでいきました。とにかく与えられた仕事に一生懸命取り組むのですが、それで怒られることも。どういうことかと言いますと、月に一度季節のお菓子の注文を取りに行くことがあり、たくさん注文が取れると喜んで店に帰ります。ところが、職人からは「そんなに注文が入ると大変だ!ほどほどにしろ」と叱られました(笑)。
店番から餡場、焼き場、そしていよいよ…
怒られることは日常茶飯事でした。お菓子を運んでいると、塀などに自転車をぶつけて商品に衝撃を与えてしまうことがよくありました。水菓子や生菓子など繊細なお菓子は、それで壊れてしまうんです。「しまった!」と思っても後の祭り。店に帰って職人さんに深々と詫びました。
言葉が違うのにも戸惑いました。例えば、いきなり「おい、かけ!」と言われても、何を書けばよいのやら。腰を掛けるともいいますし、座ればいいのかな?と悩むのですが、奈良弁では「かけ!」は「持って運べ!」なんです。参りましたね。参ったといえば、2年目に脚気になったことがありました。脚がだるくて自転車が漕げないんです。3合の米で茶粥を炊いて先輩やお店の家族を含めて計17人で分け合い、朝はたくあんと佃煮の海苔だけとおかずも十分ではなかった。鳥取では食生活が豊かでしたから、体が悲鳴をあげたのだと思います。
店番の3年が終わると、次は餡を炊く餡場に移りました。このときは毎朝4時に起きて、製材所から送られてきたおがくずを燃やして小豆を釜で炊きます。焼き物に使う餡、蒸し物に使う餡、みんな違うのでこれも覚えるのが大変でした。言葉で伝えられるものでもありませんから、加減は見て学ぶしかありませんでしたね。ただ体に叩き込んだ分、決して忘れないんです。2年を過ごして次は焼き場へ。ここでも温度調節は人間の感覚。今の機械任せの時代では決して身に付かない、焼き加減の感覚を会得できました。最初のうちは熱くて全く触れず、職人さんに「どけ!」と怒鳴られましたが(笑)。
辛かったことよりも楽しかったことの方が多い
修業時代も辛いことばかりではありません。お小遣いがもらえるんです。今でもよく覚えているのですが、一年目は月給1200円で小遣いは200円。あの頃、散髪が80円でしたから髪を切るとおよそ半分がなくなりました。当時、姉が大阪に住んでいましたので極力歩いて電車賃を浮かしながら、自作のお菓子を持って姉のところへ行くのも楽しみの一つでした。月に1回、お茶や生け花を習いに行っていたこともありました。
実は私の父と親方の間で、修業期間は10年間と決まっていました。ところが父が帰ってこいと言うもので、2年短くなって8年になったという経緯があります。親方は最後の3年間を和菓子作りにあてるつもりだったようですが、これが1年間になったわけです。最後の1年。それはもう本気でした。それまでの下積みも和菓子を作るためですから。先輩の職人に付いて、様々な菓子作りに励みました。
8年間の修業時代は振り返ってみると、辛い思い出より楽しかった思い出の方が大きいです。東大寺の管長さんや大学の学長さんなど、普段なら会えないような人と会話をすることもできましたし、大仏の手の上に乗ったことも。仲間たちと向上会というグループを作って活動したり、休みになると旅に出てユースホステルに泊まったり…。忘れがたい思い出に彩られています。
今でも奈良に行くと、親方の墓参りをしてからお店へ寄ります。私の挨拶は「ただいま」です。
構成:矢野竜広
谷岡実太郎 プロフィール
木の根まんじゅうで知られる「木の根本舗」社長。和菓子職人。趣味は写真、わら細工。