町の名物菓子「木の根まんじゅう」社長がまんじゅう誕生の裏側を語る。

書き手プロフィール
谷岡 実太郎
木の根まんじゅうで知られる「木の根本舗」社長。和菓子職人。趣味は写真、わら細工。
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今回は木の根まんじゅう誕生の裏側編です。

箱根旅行、国道9号線の開通がきっかけとなりました。

一切の妥協を許さない職人気質の父

木の根まんじゅうの誕生は、父の箱根旅行がきっかけです。父についても触れましょう。

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私の父は教鞭をとるのが夢だったそうですが、16歳か17歳の頃、倉吉から東京に出て森永製菓に勤めていました。当時はまだ森永製菓の創業者の方がいたそうです。そこでキャラメル作りに励んでいました。当時は国民皆兵ですから、一度倉吉に戻って兵役検査を受けたところまさかの乙判定。期せずして兵役を逃れた父は、大阪へ行き、飴屋で奉公をしました。そして昭和2年、鳥取に戻って「飴金」という屋号で独立。彼が25歳のときでした。今も店の看板に「飴金」という文字があるのは、この屋号が始まりだからです。

 

以来、飴作り一色の生活を送っていました。昭和14年に私が生まれるのですが、小学生に上がる頃には下手間をさせられていました。周りの子どもは遊んでいたので、最初は仕方なくという感じでしたね。父は七五三のねじり飴や金太郎飴など、多彩な飴を作ることができました。仕事に関してはとにかく厳しく、一切の妥協をしない人でした。よく怒られましたが、いつしか自分も同じ道を目指していました。

小田原の観光バスで運転手と交わした会話。

18歳の頃から奈良の老舗和菓子屋へ修業に行ったことは前回書きましたが、これは父の知人の紹介があってのことでした。10年間の約束で私は奈良へ出たわけです。そんな折、父は鳥取から箱根へ旅行に出かけます。小田原でバスに乗ったとき、運転手は父が鳥取から来たとわかると、こう言ったそうです。

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「鳥取県と言えば、唐傘のような老松をご神体にした木の根神社という神社があると聞いたことがあります」。

 

父はびっくりしたそうです。地元では「への子松」が祀られる「への子神社」と言われていましたが、まさか関東の人が知っているとは思わなかったからです。そして、もしその名が轟いているのなら、名物菓子を作ってお土産品にしようと考えました。

 

「木の根神社の木の根まんじゅうはどうだろう?」。

 

いても立ってもいられなくなったのでしょう、父は奈良にいる私に早く帰ってまんじゅうを作ってくれと言いました。今度は奈良の親方が驚きました。「まだ和菓子作りを教えるまで至っていない」と。そこで、「1年待ってください」ということで、私の和菓子作り修業が急ピッチに始まったというわけです。

 

国道9号線の開通に合わせて誕生。

これには国道9号線がいよいよ開通するという事情も背景にありました。松江・米子と鳥取方面を結ぶ大動脈が通れば、交通量が増大することは明らかです。父が経営者としてこの好機を逃したくないと思ったことも想像に難くありません。なお、鳥取県内の国道9号線が全線開通したのは、1968年(昭和43年)のことでした。私が修業を終えて鳥取に帰ると、9号線はできていました。

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めざしたのは、採算が合うか合わないかではなく、とにかく食べて美味しいまんじゅうを作るということでした。木の根まんじゅうは当初、小判型の蒸しまんじゅうでした。そして、餡には小豆ではなく、そら豆を使用。表面に「木の根まんじゅう」の焼き印を押して販売していました。

 

一応、木の根神社の「木の根まんじゅう」は出来上がりましたが、まだまだ納得できるものではありません。味や形、パッケージや看板など色々なものを見直しながら今の木の根まんじゅうになっていきました。次回は、その試行錯誤をご紹介したいと思います。

 前回の修行編

町の名物菓子「木の根まんじゅう」社長が修業時代を語る。

構成:矢野竜広

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