「田舎者は、田舎に住んでいるというだけで、想像以上のハンディを背負わされている」のか?*ライターの移住月記

書き手プロフィール
矢野竜広
1980年生まれ。会社員コピーライター、放送作家を経てフリーランスに。2013年、住み慣れた東京を離れて鳥取県へ。自宅にオフィスヤノを構え、WEBデザイナーの妻とともに夫婦で在宅ワークにいそしむ。無類のビール好き。 ブログはビアエッセイ・ドットコム。ツイッターのフォローはこちらから。
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最近、非常に興味深い記事を読んだ。

「底辺校」出身の田舎者が、東大に入って絶望した理由 知られざる「文化と教育の地域格差」

「田舎者は、田舎に住んでいるというだけで、想像以上のハンディを背負わされている」という趣旨の記事である。著者とは逆に東京から田舎に身を移した者として、色々思うところがあった。

※ちなみに、イメージ画像の左は今僕が住んでいる大山町、右は幼少期から大学卒業までを過ごした文京区である。

教育の格差は貧富の差、だけではない。

記事を書いたのは、釧路出身で東京大学入学後、大学院生活を経て現在はニューヨーク州立大学の博士課程に籍を置いている、阿部幸大さんという文学研究者(今年31歳)だ。

著者が訴えるのは、「教育の格差といえば貧富の差」というのが一般論だけど、実はその陰に地域格差というものがあるよということ。もっと踏み込むと、田舎者は田舎に住んでいるというだけで想像以上のハンデを背負わされているのではないかということ。さらに、それが「十分に認識されていないことが深刻」という。

以下、主張の大事そうなところを箇条書きで抜き書きすると、

・田舎では貧富にかかわらず、人びとは教育や文化に触れることができない。

・田舎者は教育や文化に金を使うという発想そのものが不在。

・田舎と都会で根本的に異なるのは、「文化」や「大学」といった存在が視界に入るかどうか、という差。

・田舎では文化と教育への距離が絶望的に遠いがゆえに、それらを想像すること自体から疎外されている。

・田舎において、学力というポテンシャルの価値は脆弱。

・こういう話をすると、必ず「いまはインターネットで教育が受けられる」という反応がある。だがこれは、機会の問題ではなく想像力の問題。

・田舎から都市圏の大学に進学するということは、たまたま容姿に恵まれて街角でスカウトされるのにも似た、きわめて確率的な事象。

・私が必要だと思うのは、こうした偶然性に翻弄される田舎の子供たちに、彼らが潜在的に持っている選択肢と権利とを想像させてやることであり、ひいては、東京をはじめとする都市部に住む人びとに、もう少し田舎の実態を想像してもらうことである。

といったところ。

様々な大学や大学生が身近だった幼少期。

僕はたまたまヤフーニュースかなんかで読んで「へえ」と思ったのだけど、いま元の記事を見ると「はてなブックマーク」が1800以上もされており、これはまさしく場外ホームラン級の大反響だ。以前、僕が自宅ビールサーバーの記事を書いたとき、200を超えるはてブがされたけど、それでも驚くほどの大反響だったから、ちょっと想像がつかないほどの読まれ方をしている。もちろん、賛否両論巻き起こっている。まあ、僕はこの著者に反論したいわけではない。むしろ、多くの人が何となく潜在的に感じていたことをシンプルかつ論理的に言語化できたことを純粋にすごいなあと思う。

僕は著者とは逆で、幼少期から都会にいたために見えないアドバンテージを得ていたことになる。強く思い当たる節がある。

というのは、僕の出身地である文京区小石川というのはおそらく日本でも屈指の文教地区なのだ。家のすぐ近所に拓殖大学や中央大学理工学部があり、イベントなどで中に入ったこともあるので、大学という施設や大学生という存在は実に身近だった。

さらに、高学年の小学生が自転車で行動するような範囲内に東京大学、筑波大、東洋大、お茶の水女子大、早稲田大などがあった。自分が通うことになる池袋の立教大学も家から自転車で行ける範囲だったし、小学生の頃の姉の家庭教師が立教生だったので、幼少期から容易にキャンパスライフを想像することができた。

だから、記事の著者が言う「田舎では文化と教育への距離が絶望的に遠いがゆえに、それらを想像することじたいから疎外されている」という感覚がまるでないし、「大学を高校の次に進む学校として捉える機会がない」なんてことはなく自然と「高校の次は大学」と思っていた。

田舎で育つ子どもに親ができること。

一方で、5年前に鳥取県の米子市に移住し、その1年後にさらに田舎の大山町に引っ越したおかげで、著者の言う田舎の実情もよくわかる。

僕が住む大山町内には大学はおろか、高校すらない。おそらく最寄りの大学は米子にある鳥取大学医学部なのだけど、あれはもはや大学というより病院だし、そもそも自宅から30km近く離れている。子どもが自転車で行ける距離なんかではない。

町の子ども達もそんな現状から高校を卒業すると、外に出て行ってしまう。つまり、町内で大学生を見かける機会はほぼ皆無だ。大学生どころか、若者全般を見る機会すらレアだったりする。おそらく町内の小中学生は「大学って何?大学生ってどんな人?」と思うだろう。本当に「大学」=「白衣を着たハカセが実験室で顕微鏡をのぞいたり、謎の液体が入ったフラスコを振ったりしている場所」というイメージ程度しか持てないかもしれない。

2児の父でもある僕は子どものハンデについて考えざるを得ない。大山町(旧中山町)出身の妻は米子市との学習塾の格差を訴えていたことがある。いわく、1時間に1本の汽車(電車ではない)に乗らなければならず、学校帰りに塾に寄るなんて郡部ではできないと。

進路や生き方を選択するのはあくまで子どもであり、僕はその判断を全面的に受け入れるつもりでいる。でも、将来の選択肢を増やしたり、その選択肢を具体的に想像できるようにさせる責任は親にある。親が色々な場所で見聞きしたことを積極的に伝えていくこともきっと大事だ。少なくとも僕はそう思って、今後意識的に過ごそうと思った次第である。

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